「何かが足りない…」という渇望のなかで
とんとんとんとん。
台所で包丁の音がする。ジャッジャッジャッ。米を研ぐ音だ。
少女は、台所の音を聞きつけると、何をしていようが飛んでいった。うどんを打っている母の手つきを見よう見まねで粉をこね、「そんなボソボソにして、食べられないじゃない」と苦笑される。「どんな場所よりも台所が大好き」、それが少女時代のえっちゃんだった。
料理は好きだけど、あくまで趣味の域。プロになろうなんて考えもしなかった。高校を卒業すると、手に職をつけたいと速記者の道に入った。
技術職の仕事はそれなりにやりがいはあったものの、本当にやりたいのはこれではないという思いが日増しに強くなっていく。
あるとき、週末を利用して長野の諏訪湖を旅した。そこで、大阪から1年だけ長野に仕事でやってきていた秀嗣さんと出会う。23歳で結婚。2年勤めた速記会社を辞め、大阪の吹田に所帯をもった。
料理好きのえっちゃんにとって、公設市場が点在する大阪は刺激的だった。
中央区の空堀市場や吹田の朝日町市場、豊中の豊南市場、阪急淡路の宝来市場、天満市場などなど。どこも、鮮魚店を中心に、青果、精肉、乾物などの食材店がひしめきあい、威勢のいい声が飛び交っている。仕事帰り、夢中になってあちこちの市場を歩きまわった。
「今日の鱧はモノが違うよ!」
「島根のわさび、ねっとりして辛みも甘みも最高や!」
関東では見たことのない魚や野菜に目を輝かせ、「どうやって食べたらおいしい?」と教わりながら、新しい料理を考案していった。実験料理を食べるのは、秀嗣さんはもちろん、田中家の晩ごはんで栄養補給していた友人たち。毎週のように友人を招き、宴会を開いているうちに、
「えっちゃんの料理、ほんまうまいなあ。店開いたら絶対食べに行くで」
とたびたび言われた。
そのころ、えっちゃんは料理の腕が見込まれて、会社勤めをしながら、料理教室の先生をしたり、居酒屋の料理番を任されていたりした。しかし、どちらも中途半端で、満足のいく状況ではなかった。かたや秀嗣さんもサラリーマンをしていたが、その生活は満足からは遠かった。
特に不自由はしていない。けれど、何かが足りない、満ち足りてもいない……。
大阪暮らしも7年めになり、ふたりに「このままでええんやろか?」という心の澱が積もっていたころ、転機が訪れる。
ふたりが大好きだったレストランのご夫婦を家に招いたときのことだ。
えっちゃんは気合い十分に、得意料理の東坡肉(トンポーロウ・豚の角煮)、八宝菜、じゃが芋の糸切り炒め、大根と豆腐の炒め煮などをふるまった。
料理人夫婦は、「うまい」「おいしい」を連発し、出された料理をあっという間にたいらげた。奥さんがえっちゃんの肩をポンと叩いて言った。
「えっちゃん。こんな料理、旦那さんだけに食べさしとくのん、もったいないよ。店をやり、店を」