カンボジアの歴史
ここでカンボジアの歴史を、ざっと振り返っておこう。
カンボジアは第二次大戦後、シハヌーク殿下のもとにフランスから独立し、安定期を迎える。プノンペンが、東南アジアのパリと呼ばれた時代だ。
が、隣でベトナム戦争がはじまると、その余波を受けて政局は混迷しはじめる。国内に地雷が埋められるのは、主にこの時期以降だ。
1971年には、親米派のロン・ノル将軍がクーデターによって政権を掌握する。
しかし、政権の汚職腐敗と、都市部と農村部の格差がどんどんひどくなり、貧しい農村部を中心にポル・ポト派のゲリラが勢力をのばして行く。
そして1975年に、首都プノンペンが陥落し、ポル・ポト政権が誕生した。
都市住民の強制移住や集団労働など、原始共産主義と言われる極端な政策が実施される。
その結果、経済的な破綻に陥り、飢餓や病気により、多くの国民が死亡する。
さらに、政権内の親中国派と親ベトナム派との内部抗争が激しくなっていく。
大量虐殺と呼ばれる事態が引き起こされる。
ポル・ポト政権時代の約4年の間に、100万人以上が死んだとされる。
抗争の末、親ベトナム派はベトナムに敗走する。それからベトナムの後押しを受けて猛烈な反撃に出る。1979年にポル・ポト政権を倒し、ヘン・サムリン政権と呼ばれる政権を打ち立てる。それが、今のフン・セン首相の率いる政府与党、人民党の母体だ。
その後、ポル・ポト派は再びゲリラになって、長い内戦が続く。
なぜ、内戦がいつまでも続いたのか?
その要因の一つは、国際政治の勢力図だ。
カンボジアを実効支配するヘン・サムリン政権側にはベトナム、そして旧ソビエト勢力がついていた。
ポル・ポト派をはじめとするゲリラ、いわゆる三派連合(ポル・ポト派、シハヌーク派、ロン・ノル派の流れをくむソン・サン派の三派)には、中国、それにアメリカをはじめとする自由主義諸国がついていた。タイ、日本も入っていた。
カンボジアの内戦は、国際政治の代理戦争という側面が、とても強かった。(世界で起きている内戦の悲劇は、たいがい、そうなのだけれど……。)
埋められた地雷の多くは、中国製とソビエト製だ。中国製はポル・ポト派が埋めたもの。ソビエト製は、ヘン・サムリン政権側が埋めたもの。
ようやく、1991年に和平の合意が達成され、シハヌークが国王になって舞い戻り、1993年に、UNTAC(国連暫定統治機構)のもとに、今のカンボジア王国が樹立する。
けれどもポル・ポト派は和平を拒否してゲリラ戦を続け、親玉のポル・ポトが死ぬ1998年まで、事実上の内戦は続く。
その間も、地雷が埋められ続ける。
カンボジア国内には、あわせて400万から600万個の地雷が埋められたと推定されている。
……あらすじを説明するだけでも、大変にややこしい。
血で血を洗う権力争いに、人々は翻弄され続けてきた。
そういう歴史だ。