第3話 種まき
夢の名残のような青空に、できそこないの入道雲が、浮かんでは、崩れる。
そんな日が続いたら、さあ、いよいよ、種まきだ!
早朝の光が低く射し込んで、耕された土のでこぼこが、くっきり影をつくる。
秘められた文字のようだ。
畑は、自然が記した、とてつもなく大きな手紙だ。
何と書いてあるのか?
暗号だから、ぼくには、まだわからない。
トーンは、畑の中に立って、いつものように朝の祈りを唱えた。
トーンとソピアプたちは、敬虔なキリスト教徒だ。※1
同じくキリスト者であるぼくは、ひょんなことから彼らがクリスチャンだと知った。
(そのことは、また今度、話そう……。)
「種を蒔くときは、いつでもわくわくする。
種がうまく土の中におさまってくれるだろうか?
土になじんでくれるだろうか?
雨が足りなくて、芽を出してくれないことはないか?
雨が強すぎて、流されないだろうか?
不安なことばかりだ。
でも、種を蒔くときは、そんなことは考えない。
ただ、種のひとつひとつに、グッドラックと言う。」
……サエムが、言った。
それぞれの家族に分かれて、種まきがはじまった。
子どもたちもたくさんいる。遠足のように騒がしい。
一列になって、まず、先頭のひとが土に棒で等間隔に穴を開けながら、進む。※2
その後ろのひとが、種を2粒ずつ、穴に蒔く。
そして、その後ろのひとが、足でささっと、穴に土をかける。
最後に足で土をかける役は、子どもたちだ。
土の蹴り合いのようなことになる。
よく見ると、白い種が土の上に、埋まらずにあったりもする。
きっと、彼らのネアク・ターが、後でこっそり埋めてくれるのだろう……。※3
トーンとソピアプは、もちろん、ふたり並んで仲良く種まきだ。
おそろいの赤い帽子をかぶっている。
ソピアプは義足が嫌いだ。寸法があわなくて、痛いらしい。
たいがい、松葉杖を突いている。
その松葉杖の先で、ソピアプが土に穴をあける。
そこに、トーンが、種を蒔く。
ソピアプが、松葉杖で、土をかける。
そうやって、二人で畑を進んでいく。
空のどこかで、鳥が鳴いている。
清潔な午前の光が、畑に流れている。
ふたつ並んだ赤い帽子は、まるで愉快な桜ん坊だ。
*
昼食の時間になった。
木陰にビニールシートを敷いた。
たまたま、東南アジアを放浪していた若き旅人Tと、
長年カンボジアに住んでいるA(バイクで地雷原を駆け巡って仕事していた!)が、
種まきの応援に来ていた。(Aは毎年、種まきと収穫のときに応援に来た。)
みんなで、ソピアプの手作り弁当を囲んだ。
一番のごちそうは、イナゴだった。
(味は、佃煮のような感じだろうか……。なんとなく懐かしい味だ。
日本でも昔はこれを食べていたんだろう……。)
初めてのひとには、あまり食指の動く感じではない。
眼を見開いて、たくさんの足をばたつかせてもがいたままの格好でフリーズしたような、
黒光りするイナゴがたくさん盛られているのだから……。
カンボジアが初めてだったTは、面食らったらしい。
ソピアプに勧められて、曖昧に笑って断った。
「こういう時は、出されたもんは食べな。」と、A。
「ちょっと、自分は、こういうのは……。」と、T。
「食べてみ、うまいから……。」
「いや、ちょっと……。」
そんな日本語のやりとりに、みんなは面白がって、ますますTにイナゴを勧める。
「カンボジアでは、これがごちそうなんだから。」と、ソピアプ。
「ほんとに嫌そうな顔してるねえ……。」と、笑うトーン……。
ふと気がつくと、Tの隣に、今まで見たことのない若い女のひとが座っている。
(もっとも、トーンのもとには、いつも誰やかれやと集まって、誰が誰だかわからないのだけれど……。それにしても、全く見覚えがない。)
Tにごはんをよそったり、何やかやと甲斐甲斐しい。
イナゴをスプーンで取って、Tに食べさせようとする。
Tが、いやいやをする。
「食わず嫌いはだめだよ!」
という顔をして、彼女はTを見る。
みんなが笑う。
「あの娘は、誰?」ぼくが、トーンに聞いた。
「あ、ミリーね。近所の娘。きょうだけならいいっていうから、手伝ってもらってるんだ……。」
*
木漏れ日の中で、ぐてんとする。
あたりに降り注ぐ光を見ているうちに、元気になる。
そして、また種まきだ。
しばらくしたら、子どもたちが大はしゃぎする声が聞こえた。
見ると、少し離れたところで、Tと、ミリーと、トーンの息子(小学三年生だ。夏休みで、帰省していた。)、それに甥(小学校入学前だ)が一緒にいる。
子どもたちが、何やらカンボジア語のフレーズを、Tに教えている。
それを、Tがオウム返しに真似ている。
すると、子どもたちは大喜びだ。
飛んだり跳ねたり、腹をかかえたり……。
しまいには地面に転がって大笑いする。
(無邪気な子どもたち……。)
けど、何と言ってるんだ……?
近づいてみた。
よくよく聞けば……
「私はあなたをとても愛しています」
だとか、
「ぼくの妻になってください」
などと、Tに、ミリーに向かって言わせている。
(ったく、ませたいたずらっ子どもめ……。)
Tは、意味もわからずに、純粋に旅人のサービス精神を発揮しているのだろう。
ミリーは黙って、うつむいている。
やけに神妙な顔をして、Tの言葉を聞いている……。
なんだか……。
うーむ。
……でも、なぜだろう?
向き合って立つふたり、その回りで笑い転げる子どもたち、土、刈り残った雑草、石、畑の真ん中に立っている樹、捨てられたペットボトル(誰が捨てたんだ?)、種まく人々、遠くの茂み、高床式の小屋(藁葺きの屋根が陽射しに輝いている)、牛たち……。
生きとし生けるものも、そして生きていないものも、見えるものも見えないものも、
全てが懐かしく、愛おしく見える……。
数千年の昔から、この大地のもとで
しゃぼん玉のように浮かんでは消える
日ごとの小さな幸せの光景が、
目の前に広がっている。
この青空の下。
静かな光のなかで……。
「こら、子どもたち! ふざけてないで、はやく種まきしろ!」
と、トーンが怒鳴った。
全然、効き目がない。
子どもたちはけらけら笑って、ラブソングを高らかに歌いだした。
帰りの車の中で、何を言わされていたかをTに説明したら、Tはまたしても面食らった。
「そんなあ! まさか……」
「そらあかん、カンボジアでは即、結婚や。」
「もう、それしかないな。」
Aとぼくは、ことさら鹿爪らしく言った。
*
次の日。
種まきの続きだ。
畑に着いて車から降りると、ミリーが駆け寄って来た。
(あれ? きのう一日だけだったんじゃなかったっけ……?)
ミリーは何か早口で言いながら、Tに、ジャンパーを着せた。
まるでルーチン化した日常風景のひとこまのような(そう、たとえば出勤前の夫にコートを着せるような)風情が、妙にはまっている……。
「早く! いっぱい仕事があるんだから……」
ミリーは、Tの手を引っ張って、有無を言わさずに連れて行ってしまった。
Tが色白で、Tシャツだったものだから、前日の畑仕事で日焼けして、すっかり肌が赤くなってしまった。
それで、わざわざ男用のジャンパーを持って来て、着せてあげたんだ。
でも……?
…………。
ま、いいや。
ゆるい流れのままに、種まきがはじまった。
*
その日は、特に暑かった。
ぼくは途中でギブアップして木陰に逃げ込んで、Aと無駄話をしていた。
「そういえば、Tはどうしたんだろう?」
畑を見渡すと、遠くの方で、ジャンパーを着たTとミリーがふたりっきりで種まきをしている。
子どもたちはいない。けんけんぱで忙しいのだ。
(「こら、畑で遊ぶな!」と、トーンの怒鳴り声。)
陽炎のゆれる向こうで、ふたりは黙々と種まきをしている。
言葉が通じないから、黙々とするしかないのだけれど……。
*
昼食になった。
トーンが、言った。
「種まきを一緒にしてくれて、ほんとうに、ありがとう。ぼくたちは、この日を、あの空を、一生、忘れない。」
ぼくが、言った。
「きょう、帰らなければならなくて残念だけど、一緒に蒔いたコットンが、すくすくと育ってくれたらいいね……。」
Tとミリーが並んで座っている。
なんだか、しんみりして見える。
(Tは、ただぼーっとしていたのかもしれない……。)
トーンの養子になっている青年が、にやりと笑って、ミリーに何か言った。
ミリーが、手元にあったしゃもじを振り上げた。
じっと、青年を睨んだ。
「余計なこと言うと、殴るよ!」
……と、しゃもじに書いてあった(らしい)。
青年は、ちっちゃくなってしまった。
ソピアプが、「え?」と「やれやれ」を足して二で割った顔をして、ミリーを見ていた。
Tは……やっぱり、ぼーっとしていた。
(食後のタバコを吸うときは、誰しもぼーっとして見えるものだが……。)
*
午後になって、空に風が吹きはじめた。
雲が、慌ただしく流れた。
あたりが、暗くなったり明るくなったりした。
空で、ネズミ花火のようにひゅるひゅると、生まれたたての雷の子どもたちが、駆け回りはじめた。
見えない海の匂いがした。
「急がないと。もうすぐスコールが来るぞ。」トーンが言った。
遠くに雨が、黒いビロードのカーテンのように垂れていた。
それが、あっという間に、迫ってきた。
ずぶ濡れになった。
雨あしが強くて、痛いほどだ。
「みんな、早く早く、帰るぞ!」
そういうトーンの叫びも、雨の音にかき消されて、まるで、うんと遠くの木霊のようだ。
あまりの雨に、目も開けていられない。
ぼくたちは、急いで車に乗り込んだ。
トーンたちは、トラクターの荷台に乗り込んだ。
さよならもよく聞こえないまま、ぼくたちは、慌ただしく畑を去った。
スコールが窓ガラスを叩きつけた。
雷の光が見えた。
「別れるとき、ミリーは何か言ってた?」ぼくが、聞いた。
「いえ、特に……」
「そらまあ、言葉も通じへんしなあ……。」
翌日、Tはカンボジアを去り、旅を続けた。
*
次に、ぼくがトーンの家を訪れたとき、小屋の物陰に、ミリーが立っていた。
ぼくたちが来ると聞いて、待っていたらしい。
ぼくが挨拶したら、軽く笑って会釈した。
それから、ぼくは小屋の前の縁台に座って、トーンたちと打ち合わせをはじめた。
気がつくと、もう、ミリーがいなくなっていた。
「ミリーは?」ぼくが、聞いた。
「さあ……、うちに帰ったんじゃないか?」トーンが、答えた。
それっきり、ミリーの姿を見かけたことがない。