「はじめの一歩」山本けんぞう はじめの一歩を踏み出すほかに、ぼくたちに何ができるだろう──

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第2話 ふがふが
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「空が、まだ高いな。とうぶん、雨は来ないね……。」
 マムが、言った。
 それから、ため息をついて、バナナの茎を包丁で切り続けた。(鶏の炭火焼の付け合わせだ。)
 マムは、身寄りのない少女だった。 14歳のとき、弟と一緒に、トーンとソピアプに引き取られた。(今、21歳だ。弟は、トラクターが対戦車地雷を踏んだ事故で即死した。)
 マムの天気予報は、よく当たる。
 ……と、言われている。
 それで、小屋の軒先で、一緒に昼食の用意をしていたソピアプたちも、みんな、ため息をついた。
 雨が降らないと、種まきができない。※1

「きっと、そのうち降るよ。きょうは、そのうち降る雨の前祝いに、おいしいものをたくさん食べましょう。」ソピアプが、言った。
「毎日、前祝いだな。」トーンが、笑った……。



 トーンとソピアプが参加して、地雷原での活動は弾みがついた。 
 はじめの一歩から、だるまさんがころ……ぐらいまで、一挙に進みそうな勢いだった。
 二人が村のひとたちをとりまとめて、コットン栽培が始まった。
 二人はコーダエ村にいるおばあちゃんたちのもとに泊まり込みで2週間、糸紡ぎを習った。※2
 ソピアプは機織りは知っていたが、糸紡ぎをしたことがなかった。糸紡ぎから縫製まで、全部自分でやってのけるのがソピアプの望みだった。
(そう、自分は足を失ってしまって奇麗な服を着て遊べないけれど、自分の手で奇麗な服を作りたい……それが、十代の頃の夢だったのだから。)

 二人は、黙々と糸紡ぎの練習をした。
 あまりに真剣で、声をかけるのが憚れるくらいだった。
「地雷被害者の辛さは、地雷被害者にしかわからない。
 自分たちの手で成功の道を開いて、自分たち同士で助け合っていくしかない。」
 トーンは、そう言った。
 信念と言っても、いいかもしれない。その時のトーンの目には、不屈の何かが宿っていた……。



 ぼくたちは、2度目の栽培の時期を迎えていた。
 けれど、地雷原に、なかなか雨季が訪れなかった。
 いつもだったら、7月も半ばを過ぎれば、連日、スコールが地雷原を襲う。
 午後になると突風が吹いて、遠雷が鳴る。
 低い雲が、空を覆う。
 あたりは、夕闇のように暗くなる。
 それから、強烈な雨が降りだす。
 あまりの大雨に、突如として、なにもなかった野原に川が出現する。
 そこかしこの小屋が水没し、子どもたちは裸になって水浴びをする。
 ……という時期なのに、雨が全く降らなかった。
 ただ、風だけが吹いていた。

 このままでは、今年の農作に被害が出てしまう……。
 村のひとたちは、太鼓や鐘を鳴らして歩き回り、雨乞いの儀式を続けていた。


 ぼくたちは毎日トーンの小屋に集まって、マムの天気予報を聞いていた。
「まだ?」と、ぼくたち。
「うーん……、まだ。」と、マム。
「まったく、今年の空はいつまで高いんだ。」と、ぼやくメンバーのひとり。
 このまま雨が降らなかったら、今年はコットンを栽培できないかもしれない……。
 そんな不安が、みんなの心にあった。
 
 でも、どうしようもない。
 ただ、陽炎の向こうに揺れるヤシの木を眺めるしかなかった。
 突風が吹くと、土ぼこりが舞って、木々の葉が錆のような赤茶色に染まってしまう。

 縁台でごろごろしていた2歳のワッタナが、泣き出した。
 ソピアプの弟の次男だ。
 トーンは、甥っ子のワッタナをからかうのが大好きだ。
 なにかにつけ、ワッタナの両のほっぺたを引っ張って「ニー!」をしたり、鼻先をつぶして「豚ちゃん豚ちゃん」をする。
「泣いてばかりいたら、豚ちゃん豚ちゃんになっちゃうぞ!」
 と、その時もさっそくワッタナを豚ちゃん鼻にした。
 ワッタナは、嫌がるわけでもなく、ただ、きょとんとしている。
 そのうち、「ニー!」が始まった。
 されるがままにしていたワッタナだけれど、トーンがしつこいので、しまいには首を振って、泣き出しそうな顔をした。
 お母さん(つまり、ソピアプの弟の妻)が、ワッタナを抱きかかえて、言った。
「豚じゃない、豚じゃない。」

 トーンの隣に座っていたサエムが、笑った。
「ひどいおじさんだねえ。」
 サエムは、トーンのもとに集まる人たちのなかで、たぶん、最年長だろう。
 寡黙な男で、いつも穏やかな顔をしている。
 みんなの話を聞いて、時々、一こと二こと意見を口にする。
 ぼくには何を言っているかわからないけれど、みな、サエムの言葉に納得する。

 トーンの小屋には、入れかわり立ちかわり、いつもたくさんの人が集まっている。
 誰が誰だか、よくわからない。
 トーンに聞いても、男はみんな「マイ・ブラザー」で、女は「マイ・シスター」になってしまう。よくよく聞くと、親戚だったり、村の知り合いだったり、遠い村の知り合いの知り合いだったり…… 結局、よくわからない。

 いつも子どもたちが、ぱたぱた駆け回っている。誰が誰の子か、よくわからない。
 そのうえ、豚や犬や猫や鶏や、時には山羊までがいる。
「昨日の山羊か?」と聞くと、
「別のだ。昨日の山羊は、きょうは隣の家にいる。」といった答えが帰ってくる。
 生きとし生けるものが、なにやかやと集まって来るトーンの小屋だけれど、
 その求心力は、やっぱり、ソピアプだろう。みな、ソピアプを慕っている。
 トーンも、ソピアプが好きで好きでたまらないらしい。というか、たまらないのだ。

「ほんとに、彼女のことが好きなんだね。」と冷やかされると、トーンは、
「ぱっと見たときから、この娘は頭がいいって、わかった。ぼくには、すぐわかる。」
 と、自慢げに言う。※3
 みんなは、「ごちそうさま……」だ。

 小屋には、清澄な隣人愛が溢れている……。



 その日、ぼくたちは早朝に小屋を訪れた。
「もう、そろそろらしい」というマムの予報をもとに、トーンとソピアプと車で、畑の手入れをしに行く予定だった。
 小屋に着くと、庭先の縁台に、汚れた格好をしたおじいさんおばあさんが、坐っていた。
「おかねがないんだよ。恵んでおくれ」と、おばあさんが、震える両手をぼくに差し出した。
 夫婦で物乞いに来て、居座っているんだな、と思った。
 正直、『やれやれ』と、思った。
 とりあえず、「ハロー」と言った。

 ぼくは「さあ、早く出発しよう」と言って、トーンとソピアプを車に招いた。
 トーンとソピアプが、車に乗ると、おじいさんが、よたよた、ついてきた。
 おじいさんは、ドロドロになった短パンのようなものに、汚れたNIKY(ナイキと読むんだろうな、やっぱり……)のジャンパー(この暑いのに)を着ていた。
 笑って、ぼくに「ふがふが」と、言った。
 すると、ソピアプが、くったくのない笑顔で、「乗りな、乗りな」と、手招きした。
 で、おじいさんが、車に乗り込んできた。
『ええ? ちょっと……なぜ?』
 と、ぼくは思った。
 車が動きだした。
 よっぽど、ぼくが「うーん……」といった顔をしていたのだろう。
 トーンが、英語で説明した。
「このおじいさんと、おばあさんは、近くの森に住んでいる。食べるものがなくて可哀想だから、毎朝、ご飯を一緒に食べているんだ。一生に一度でいいから、車に乗ってみたかったんだって……。」
 そうか……。
 ぼくは、自分の心の狭さに、深く恥じ入った。
 ソピアプを前にして、ただただ、頭の下がる思いだった。

 おじいさんは、生まれて初めて車に乗って、しばしご満悦のようだった。
 が、そのうち、車酔いしたらしい。口を両手で押さえていた……。



 空には、ぽこぽこ白い雲が浮かんでいた。
 けれど、雨を降らしそうな雲は、見当たらない。
 ぼくたちは、畑の様子を見てまわった。
 おじいさんも、黙ってついてきた。
 ソピアプが振り返って、聞いた。
「おじいさん、もうすぐ雨が降ると思う?」
 おじいさんは、口をふがふがさせて、首を縦に振った。
 ということは、「降る」ということだろう。
 ソピアプが、高らかに笑った。
 その声が空に昇って、雲が動いた。

 帰りの車のなかで、ソピアプが言った。
「おじいさん、昼ごはん食べていく?」

 おじいさんは、後ろの座席で、すやすや眠っていた。

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