第2話 ふがふが
「空が、まだ高いな。とうぶん、雨は来ないね……。」
マムが、言った。
それから、ため息をついて、バナナの茎を包丁で切り続けた。(鶏の炭火焼の付け合わせだ。)
マムは、身寄りのない少女だった。 14歳のとき、弟と一緒に、トーンとソピアプに引き取られた。(今、21歳だ。弟は、トラクターが対戦車地雷を踏んだ事故で即死した。)
マムの天気予報は、よく当たる。
……と、言われている。
それで、小屋の軒先で、一緒に昼食の用意をしていたソピアプたちも、みんな、ため息をついた。
雨が降らないと、種まきができない。※1
「毎日、前祝いだな。」トーンが、笑った……。
*
トーンとソピアプが参加して、地雷原での活動は弾みがついた。
はじめの一歩から、だるまさんがころ……ぐらいまで、一挙に進みそうな勢いだった。
二人が村のひとたちをとりまとめて、コットン栽培が始まった。
二人はコーダエ村にいるおばあちゃんたちのもとに泊まり込みで2週間、糸紡ぎを習った。※2
ソピアプは機織りは知っていたが、糸紡ぎをしたことがなかった。糸紡ぎから縫製まで、全部自分でやってのけるのがソピアプの望みだった。
(そう、自分は足を失ってしまって奇麗な服を着て遊べないけれど、自分の手で奇麗な服を作りたい……それが、十代の頃の夢だったのだから。)
二人は、黙々と糸紡ぎの練習をした。
あまりに真剣で、声をかけるのが憚れるくらいだった。
「地雷被害者の辛さは、地雷被害者にしかわからない。
自分たちの手で成功の道を開いて、自分たち同士で助け合っていくしかない。」
トーンは、そう言った。
信念と言っても、いいかもしれない。その時のトーンの目には、不屈の何かが宿っていた……。
*
ぼくたちは、2度目の栽培の時期を迎えていた。
けれど、地雷原に、なかなか雨季が訪れなかった。
いつもだったら、7月も半ばを過ぎれば、連日、スコールが地雷原を襲う。
午後になると突風が吹いて、遠雷が鳴る。
低い雲が、空を覆う。
あたりは、夕闇のように暗くなる。
それから、強烈な雨が降りだす。
あまりの大雨に、突如として、なにもなかった野原に川が出現する。
そこかしこの小屋が水没し、子どもたちは裸になって水浴びをする。
……という時期なのに、雨が全く降らなかった。
ただ、風だけが吹いていた。
このままでは、今年の農作に被害が出てしまう……。
村のひとたちは、太鼓や鐘を鳴らして歩き回り、雨乞いの儀式を続けていた。
ぼくたちは毎日トーンの小屋に集まって、マムの天気予報を聞いていた。
「まだ?」と、ぼくたち。
「うーん……、まだ。」と、マム。
「まったく、今年の空はいつまで高いんだ。」と、ぼやくメンバーのひとり。
このまま雨が降らなかったら、今年はコットンを栽培できないかもしれない……。
そんな不安が、みんなの心にあった。
でも、どうしようもない。
ただ、陽炎の向こうに揺れるヤシの木を眺めるしかなかった。
突風が吹くと、土ぼこりが舞って、木々の葉が錆のような赤茶色に染まってしまう。
縁台でごろごろしていた2歳のワッタナが、泣き出した。
ソピアプの弟の次男だ。
トーンは、甥っ子のワッタナをからかうのが大好きだ。
なにかにつけ、ワッタナの両のほっぺたを引っ張って「ニー!」をしたり、鼻先をつぶして「豚ちゃん豚ちゃん」をする。
「泣いてばかりいたら、豚ちゃん豚ちゃんになっちゃうぞ!」
と、その時もさっそくワッタナを豚ちゃん鼻にした。
ワッタナは、嫌がるわけでもなく、ただ、きょとんとしている。
そのうち、「ニー!」が始まった。
されるがままにしていたワッタナだけれど、トーンがしつこいので、しまいには首を振って、泣き出しそうな顔をした。
お母さん(つまり、ソピアプの弟の妻)が、ワッタナを抱きかかえて、言った。
「豚じゃない、豚じゃない。」
トーンの隣に座っていたサエムが、笑った。
「ひどいおじさんだねえ。」
サエムは、トーンのもとに集まる人たちのなかで、たぶん、最年長だろう。
寡黙な男で、いつも穏やかな顔をしている。
みんなの話を聞いて、時々、一こと二こと意見を口にする。
ぼくには何を言っているかわからないけれど、みな、サエムの言葉に納得する。
トーンの小屋には、入れかわり立ちかわり、いつもたくさんの人が集まっている。
誰が誰だか、よくわからない。
トーンに聞いても、男はみんな「マイ・ブラザー」で、女は「マイ・シスター」になってしまう。よくよく聞くと、親戚だったり、村の知り合いだったり、遠い村の知り合いの知り合いだったり…… 結局、よくわからない。
いつも子どもたちが、ぱたぱた駆け回っている。誰が誰の子か、よくわからない。
そのうえ、豚や犬や猫や鶏や、時には山羊までがいる。
「昨日の山羊か?」と聞くと、
「別のだ。昨日の山羊は、きょうは隣の家にいる。」といった答えが帰ってくる。
生きとし生けるものが、なにやかやと集まって来るトーンの小屋だけれど、
その求心力は、やっぱり、ソピアプだろう。みな、ソピアプを慕っている。
トーンも、ソピアプが好きで好きでたまらないらしい。というか、たまらないのだ。
「ほんとに、彼女のことが好きなんだね。」と冷やかされると、トーンは、
「ぱっと見たときから、この娘は頭がいいって、わかった。ぼくには、すぐわかる。」
と、自慢げに言う。※3
みんなは、「ごちそうさま……」だ。
小屋には、清澄な隣人愛が溢れている……。
*
その日、ぼくたちは早朝に小屋を訪れた。
「もう、そろそろらしい」というマムの予報をもとに、トーンとソピアプと車で、畑の手入れをしに行く予定だった。
小屋に着くと、庭先の縁台に、汚れた格好をしたおじいさんおばあさんが、坐っていた。
「おかねがないんだよ。恵んでおくれ」と、おばあさんが、震える両手をぼくに差し出した。
夫婦で物乞いに来て、居座っているんだな、と思った。
正直、『やれやれ』と、思った。
とりあえず、「ハロー」と言った。
ぼくは「さあ、早く出発しよう」と言って、トーンとソピアプを車に招いた。
トーンとソピアプが、車に乗ると、おじいさんが、よたよた、ついてきた。
おじいさんは、ドロドロになった短パンのようなものに、汚れたNIKY(ナイキと読むんだろうな、やっぱり……)のジャンパー(この暑いのに)を着ていた。
笑って、ぼくに「ふがふが」と、言った。
すると、ソピアプが、くったくのない笑顔で、「乗りな、乗りな」と、手招きした。
で、おじいさんが、車に乗り込んできた。
『ええ? ちょっと……なぜ?』
と、ぼくは思った。
車が動きだした。
よっぽど、ぼくが「うーん……」といった顔をしていたのだろう。
トーンが、英語で説明した。
「このおじいさんと、おばあさんは、近くの森に住んでいる。食べるものがなくて可哀想だから、毎朝、ご飯を一緒に食べているんだ。一生に一度でいいから、車に乗ってみたかったんだって……。」
そうか……。
ぼくは、自分の心の狭さに、深く恥じ入った。
ソピアプを前にして、ただただ、頭の下がる思いだった。
おじいさんは、生まれて初めて車に乗って、しばしご満悦のようだった。
が、そのうち、車酔いしたらしい。口を両手で押さえていた……。
*
空には、ぽこぽこ白い雲が浮かんでいた。
けれど、雨を降らしそうな雲は、見当たらない。
ぼくたちは、畑の様子を見てまわった。
おじいさんも、黙ってついてきた。
ソピアプが振り返って、聞いた。
「おじいさん、もうすぐ雨が降ると思う?」
おじいさんは、口をふがふがさせて、首を縦に振った。
ということは、「降る」ということだろう。
ソピアプが、高らかに笑った。
その声が空に昇って、雲が動いた。
帰りの車のなかで、ソピアプが言った。
「おじいさん、昼ごはん食べていく?」
おじいさんは、後ろの座席で、すやすや眠っていた。