第0話 光あるうちに光にむかえ
地雷原の空は、朝ならば、たいがい、うっすら霞んでいる。
光が乱反射して、きらきら流れて見える。
その光を浴びて、地上の何もかもが、不思議なほど清澄に見える。
それを恩寵と、あるひとは言う。
いや、地雷原には人も車も少ないから空気が澄んでいる。ただそれだけのことだ。
と、別のひとは言う。
どちらが、正しいのだろう?
どちらも、正しいのだろう。
*
風はどこから吹くのか、
どこへ吹くのか、
わからない。
ただ、ぼくらを未知の歌へと誘うのだ。
*
その地雷原の村を初めて訪れた時も、やっぱり、空は優しく霞んでいた。
ぼくたちは、おんぼろランドクルーザーに乗って、地雷原の一本道を、奥へ奥へとひた走った。
荒地が、どこまでも広がっていた。
髑髏マークの赤い立て札が、あちらこちらに立っていた。
茨のような、棘だらけの蔦が、一帯を覆っていた。
あまりに多くの地雷が埋められているために、にんげんが足を踏み入れないのだ。
それで、繁殖力の強い蔦が茂りたい放題に茂っていた。
死の大地を装飾するには、うってつけかもしれない。
まるで錆びた有刺鉄線が、大地にはびこっているようだった。
単調で、不毛な世界だった。
それでいて、やけに静謐だった。
清らかな光が、あたり一面に降り注いでいた。
「この呪われた土地が、綿畑に生まれかわるなんて、まるで昼寝に見る夢のようだ。実現するのでしょうか?」
助手席に座っていた案内役の村人が、聞いた。
ラスメイが運転しながら、それを英語に訳して、後ろのぼくに伝えた。
「きっと、できます。」ぼくの答えを、ラスメイがカンボジア語に訳した。「このあたりは、地雷さえなければ、豊かな土地です。内戦前は、綿の産地として知られていました。だから、できますよ。もしみんなが、白い綿畑に希望の色を見いだせるなら……。」
「白い綿畑が希望の色になる確証はあるのですか?」
村人が、たたみかけて聞いた。
ラスメイが、英語に訳した。
ぼくは、答えた。
「それは、やってみなければわかりません……。」
ラスメイが、カンボジア語に訳した。
それっきり、三人は黙った。
*
地雷原を、綿畑に変える。
にんげんの憎悪と分断のシンボルだった地雷原を、
ひととひととの、
そして自然界の全ての生命との、
共生のシンボルに変える。
ほわほわの綿の力で……。
担い手は、地雷被害者、それに高齢者を中心とした女性たち。
地雷原の大地から、世界に新しい希望を発信する……。
ごく大雑把に言えば、それがぼくたちの活動の趣旨だ。※1
自然が救うカンボジア……!
*
20年ほど昔、ぼくは報道特派員として、カンボジアに駐在した。
1991年から94年にかけて。
ちょうど、カンボジアで長い内戦が終り、和平が実現した時期だった。※2
その時の仕事仲間のひとりが、ラスメイだった。
カンボジアを去った後も、いつもカンボジアはぼくにとって、懐かしい世界だった。
紆余曲折を経て会社を辞めた時、ぼくが真っ先に思ったのは、カンボジアに戻ることだった。
かつての仲間と共に、カンボジアでNGO・Nature Saves Cambodia! を発足したのが、2007年のことだった。※3
何故、カンボジアでそんな活動を始めたのか?
そう問われたら、ぼくにも説明がつかない。
この連載を書いているうちに、わかってくるかもしれない。
そう願いたい。
今は、ただ、こう答えるしかない。
不思議に懐かしい場所だから……。
*
何度か現地調査をしたあと、地雷原の村の4ヘクタールの土地での活動をスタートした。
それが2009年のことだ。
カンボジア地雷対策センター(CMAC)に地雷除去を依頼した。
CMACは、ぼくたちの活動に賛同してくれた。
一個小隊のチームを送り込んで、1か月ほどかけて、地雷を除去してくれた。※4
4ヘクタールの土地は、綿畑にとっては、お話にならないくらいに小さい。
(原綿で採算が取れる綿畑は、通常、数百ヘクタールがあたりまえなのだ。)
けれど、ぼくたちのはじめの一歩を踏み出す拠点としては、広大過ぎるほどだった。
「あっちの樹が立っているところから、あっちの樹が立っているところまで」
と説明されても、よくわからない。
地平線のかなたまで、畑が広がっているように見える。
安全になった土を、ぼくたちは裸足になって、踏みしめた。
土は柔らかく、湿っていた。
時々、固い雑草が足の裏に刺さった。
それもまた、心地よかった。
その痛みは、生まれ出る小さな生命のシグナルだ。
そう、全てが生きている!
遠くで、風の匂いがした。
空はやっぱり、うっすら、霞んでいた。
その空に、にじむように、紫の山が連なっていた。
ぼくは、かつて内戦時代に、あの山々を訪れた時のことを思い起こした。
ゲリラと政府軍との間で激しい戦闘が繰り広げられていた頃のことだ。
*
1993年だったはずだ。
和平が成立しても、まだ、ポル・ポト派ゲリラと政府軍の間で戦闘が続いていた。※5
取材のために、政府軍のヘリコプターに同乗して、山の中腹に降りた。
進軍する兵士たちに、ついて行った。
雨季が近づいていた。
すでに大量の雨で、密林は沼のようになっていた。
沼は、嫌な匂いに満ちていた。
死臭としか、言いようがない。
ぼくたちは、胸まで泥水に浸かって進んだ。
兵士たちは、カラシニコフ銃が濡れないように、万歳をして銃を掲げ、
ざぶざぶ、歩いていた。
それが、どことなく滑稽に見えた。
が、滑稽だなどと言っていられなかった。
そのうち、ゲリラ側から集中砲火を浴びた。
ヘリコプターで着陸したものだから、格好の攻撃目標になってしまったのだ。
フクロウというあだ名の兵士がいた。
何故フクロウなのか、わからない。
理由を聞いている余裕もなかった。
顔は、ちっともフクロウに似ていなかった。
どこを見ているのかわからない目付きで、常にうわの空のような風情だった。
人生の全てに興味を失ったような顔をしていた。
フクロウには、特殊な任務があった。
耳をすまして、遠くから飛んで来る砲弾が、どこに落ちるかを聞き分けるのだ。
フクロウは、不意に足を止め、目をつむり、耳をすます。
その時点では、ぼくには、砲弾の飛んで来る音は聞こえない。
詩興が沸いて、別の世界に行ってしまった詩人のように、
フクロウは突然立ち止まり、瞑想に耽っているような顔をする。
それから、目を見開き、叫ぶ。
何を言っているのか、わからなかった。
多分、「左前方、約100メートル」とか、そんなことを叫んでいたのだろう。
その頃には、砲弾が、キューンという音を立てたり、稲妻のようにばりばり鳴るのが聞こえる。
と、思う間もなく、フクロウの指差すあたりに爆音がして、兵士たちの叫び声が聞こえる。
驚くべきことに、フクロウの予測は全て、ほぼ正確に当たった。
ただ、その予測と着弾の間には、ほんの十数秒ほどしかなかった。
兵士たちは、フクロウの指差す方角の反対方向に、
ばちゃばちゃと跳び逃げるのが、精一杯だった。
結局、その時の進攻は頓挫し、一行は逃げ帰った。
砲弾の破片が体中に刺さった兵士たちが、血だらけになって転がっていた。
目を開いたまま、泥に浮かぶ兵士がいた。
その目に、はやくも、蠅がたかっていた。
涙は、甘ずっぱいのだろう……。
死にゆく兵士たちを置き去りにして、
ぼくらを乗せたヘリコプターは、
木々の上へとあがって行った。
後で知った。フクロウは、カンボジアでは不吉な鳥とされているらしい。
夜、にんげんが死ぬ前に、魂を奪いにやって来るという。
あの兵士のあだ名も、そのあたりに由来があったのかもしれない。
たしかに、彼の叫び声は、兵士たちの最後の命綱だ。
けれど、考えようによっては、彼が叫べば必ず、惨事が起こるわけだ。
その意味で、彼の叫びは常に、不吉でしかありえない。
そう言えば、たしかギリシャ神話では、フクロウは知恵のシンボルのはずだ。
あの兵士の顔は、大いなる知恵を授かった予言者のようだとも、言えなくもない。
凶しか語らない予言者……。
*
戦争は終り、たくさんの地雷が残された。
その数は、400万から600万と言われる。本当の数は、わからない。
地雷原一帯には、当時の死臭が今もしみついている。そう、思えてならない。
はたして、ぼくたちは、ここで希望を発信することができるのだろうか?
何もかも、やってみないとわからないことばかりだった。
そして、何かをやれば、何かが障害となって立ちはだかった。
これからも、そうだろう。
まるでぼくたちは、いつまで経っても、はじめの一歩を踏み出すばかりのようだ。
でも、それでいいのかもしれない。
その一瞬一瞬、はじめの一歩を踏み出すほかに、
いったい、ぼくたちに何ができるだろう?
はじめの一歩は、いつも、希望の一歩だ。
希望の一歩は、常に、はじめの一歩だ。
光あるうちに、光に向かって歩こう。
光の消えた後の闇を、今、忖度することはない。
それは、にんげんの不遜ではないか?
こんなにも透明な光が、ぼくたちに降り注いでいるのだから。
*
『明日のことを思い煩うな。明日は、明日自身が思い煩ってくれる。今日は、今日の苦しみで、十分だ。』(マタイによる福音書 6.34)
この引用は、きっと、連載のなかで何度も出てくるだろう。
ぎりぎりの生死のはざまで生きる地雷原の人々にとって、何の説明も要らず、直接心に響く<生命の言葉>だから……。
この連載は、ぼくたちの活動の詳しい紹介でもないし、ノンフィクションやルポを目指すものでもない。
地雷原を通して出会う人たちの、それぞれの再生を求める未完の物語になるはずだ。
自分も、そのなかの一人だ。
祈りを込めて、書いていく。